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1)はじめに
●寝ても覚めても「形而上学」とは何か、が問題です
2)機能主義とは何か
●機能主義の起源はパブロフの犬
●機能主義はインプットとアウトプットの〈中間〉にあるものは無視する
●コントロールできないものとコントロールできるもの
●サイバネティクスの原理は「実際の」行動に対応すること
●フィードバックシステムとは「思考」と同じ(=考える機械)
●機能主義から行動主義へ
●チューリングテスト
3)機能主義の蹉跌
●フレーム問題
●〈関係のないもの〉を無視する、忘れることができる人間
4)環境とは、後からやって来るもの
●因果を辿れない「環境」
●自伝は、自分の人生を二度殺しているのと同じ
5)データベースと後悔
●〈後悔先に立たず〉を解消するためのデータベース
●なぜ〈検索〉なのか
6)近代の問題
●近代的主体性=自由の問題 ― 人間性をいうのは差別主義、階級主義
●マークシート試験、○×試験、選択問題こそが、近代的自由の源泉
7)Twitterにおける自由と平等
●検索主義の解体
●Twitterにおけるストックの時間性 ― 専門性とは入力と出力の間に時間差があること
●ハイパーリンクの課題 ― 強力な学びの主体がないと機能しない
8)Twitterにおける検索主義の解消
●Twitterの5つの特徴
1) Twitterはデータベース(ストック)ではない
2) 単にフローではなく、〈現在〉を共有している
3) 現在の共有=inputとoutputとが同時に存在する
4) 情報の先に、いつも同時に書き手と読者が存在している(情報の身体化)
5) この書き手と読者との同時存在は、いつも断片化し、ストック化に抗う
9)1990年前後から始まったオンライン自己現象
●ネット上の人間関係でしか自己を形成できない人たちの群れ
●ハイパーメリトクラシー教育
10)消費社会とオンライン自己
●消費社会の深化はストック人材をますます不要にしていく
●「主体」が未形成の人に「主体」を強要する矛盾
11)IT社会(高度情報化社会)とオンライン自己
●人間関係重視の社会
●高卒求人数の10分の一の激減
●「主体」が未形成の若者に「主体」を強要する矛盾
●小さな共同体における他者の肥大
●内面の肥大とTwitter現象
●現在を微分することの他者化機能
12)Twitterの〈現在〉の限界とポストモダン
●現在の微分は、身体と死の微分
●「時間を忘れること」と「死を忘れること」
●「セックスなう」と「死ぬなう」
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補論:土井隆義の個性論(『個性を煽られる若者たち』における個性論)
●個性とは、内在の別名か?― 土井隆義の個性論(1)
●〈現在〉を書き留める「濃密手帳」― 土井隆義の個性論(2)
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1)はじめに
●寝ても覚めても「形而上学」とは何か、が問題です
「形而上学(メタフィジックス)」というのは、ラテン中世を通じて変質してしまい、デカルトの「主観性」で完全に停滞して、その反省が20世紀に入ってハイデガーとかヴィントゲンシュタインの思想に流れこんでいくという話を私の日経BPnet連載「ストック情報武装化論」(
アリストテレス自身は「プロテ-・フィロソフィア」としか言っていない。
彼が「プロテ-・フィロソフィア」と言ったのは哲学中の哲学という意味での「初源の(根源の)」哲学という意味でのことですが、そもそもギリシアで「フィロソフィア」というのは、ギリシャでは、サイエンスも含めた学問全体を指していた。「フィロソフィア」は、今よりも、ずっと広い意味を持っていたわけです。
だから「フィロソフィア」は今みたいな抽象的な原理(思想)だけを問う思考ではなかった。アリストテレスが言っていた「プロテ-・フィロソフィア」は後に「メタフィジクス」=形而上学と言われているものですけれども、その「プロテ-・フィロソフィア」は、編纂上の都合で「自然学(フィジックス)」の「あと」(メタ)に置かれてしまった。編纂上の都合で、「自然学」の「後の巻」というのを「形而上学」と呼んでいるわけです。
アリストテレスも知らない編纂上の都合でつくられた「メタ・フィジックス」という言葉は現代に至るこの2000年間を支配し、悪く言えば2000年間もアリストテレスの「プロテ-」構想は隠れ続けて今に至っているわけです。
「プロテ-・フィロソフィア」の主題は存在論です。つまり〈人間(魂)〉、〈自然〉も含めたあれこれの存在者が「在る」という問題です(アリストテレスが言った「様々な仕方で存在は語られる」というもの)。「無」ではなくなぜ「在る」のか(ライプニッツの問い)。「無」も在るわけだから、「在る」ということの問題をどう解くかが一番大きな問題だった。それなのに、「メタフィジックス」という編纂上の言葉とともに消えてしまったのが、ハイデガーの言う「存在忘却」の歴史であります。
今日、お話しする隠れた主題は、この存在論の問題ですが、このことを真正面からお話し始めると限られた時間の中でほかの話ができなくなってしまいますから、とにかくレジュメに書いたことを全部話すつもりでまとめました。綱渡りのような話し方になると思いますが、2,3箇所くらい「なるほど」と思って下されば今日の話は成功です(笑)。
この「プロテ-・フィロソフィア」の話は、今日のお話の最後のところのお話です。パワポ15枚目の4に「形而上学の存在―神―論的体制の、存在者(範例的存在者としての現存在=人間)から存在へのベクトル」のところが「存在忘却」の問題ですが、このラストの話につながるようにうまく話せるかどうかはわかりませんが、とにかくやってみます(笑)。
2)機能主義とは何か
●機能主義の起源はパブロフの犬
まずは、諸悪の根源、機能主義からお話しします。機能主義は高度情報化社会の今日のみならず、近代という時代そのものを画している思考です。だから、最初にこの問題を取り上げます。
機能主義というのはファンクショナリズムと言います。機能主義と訳した原語はファンクション(function)ですから、関数です。だから機能主義とは「関数主義」と言うことです。機能主義というと実益主義ととってしまう人がいますが、そう訳すと誤解する人が多くなる(実益と無関係ではありませんが)。
私はこの言葉を、先代の研究者たちはちゃんと訳しておくべきだったと、日経BPnetの先の連載で書きました。
それというのも、私が十代後半から20代前半にかけて圧倒的に影響をうけた吉本隆明が、ひたすら自分がやってきたことを話し続ける長い講演会(NHKのETV特集)で、自分にとっては〈自己表出論〉がすべてだったといい、この自己表出論は蔓延する機能主義に対する戦いだったのだということをポツリと言ったのです。
私はそれがすごくピンときて(たぶん、この吉本の言葉を理解できるのは私だけだと自負していました・笑)、やはり機能主義が問題なのかと思いました。吉本の〈自己表出〉論は、もともと〈指示表出〉における機能主義的な言語論を意識していたわけです。
ハイデガーも、サイバネティクスを最後まで機能主義と見なして闘ってきましたが、吉本もそうだったのか、それを私なりに整理しなければいけないなと思いました。かねてから機能主義については触れてきたのですが、たまたま、私のTwitter都庁講演を聴いてくれていた日経BPnetの編集部がそれを聞いて書いてくれと言ってきました。それで連載を始めたのが「ストック情報論」(
ところが、依頼した編集部はあんな記事になるとは思っていなかったらしい(笑)。あんな堅い話が日経BPのようなマスメディアに載って、いったい誰が読むのかしらないが、きめて異例(笑い)。
●機能主義はインプットとアウトプットの〈中間〉にあるものは無視する
さて、機能主義のファンクショナリズムは、私が考えるところ、パブロフの犬の条件反射論が最初だと思います。
パブロフの条件反射論というのは、ベルを鳴らしてから犬に食べ物を反復的に与え続けると、そのうちにベルを鳴らしただけで犬に唾液が出てくるようになるというもの。
このことはどういうことかというと、とあるインプットを反復的に、規則的に流し続けると、とあるアウトプットが生じる。インプットがあってアウトプットがある。しかし真ん中の部分(食べられるから唾液が出るという因果関係を担っている〈犬〉の実体)はブラックボックスで、真ん中を無視している思考なわけです。
ある刺激を与え続けるとどんなアウトプットが出てくるか、そこにある傾向性、規則性が見出されれば、それが何で〈ある〉かはその傾向性、規則性が決めるのであって、その中間(担っている実体)が何であるのかは無視してよろしいというのが条件反射論です。そういうinputにそういうoutputが生じれば、そういうのが犬〈である〉と、そう考えるのが条件反射論の思考なわけです。
刺激―反応の一定の規則性こそが、その存在者の実体性を構成するものであって、〈主体〉や〈内部(内面性)〉や〈心〉というものは存在しない。この考え方がウィナーのサイバネティクスの一番の基本になります。
●コントロールできないものとコントロールできるもの
ウィナー(1894―1964)のサイバネティクス論が出たのは第二次大戦前後です。
サイバネティクスという言葉は、語源はギリシア語ですが、元々は操舵者、舵を取る人という意味です。100キロくらいの沖合から港に船を着けるには、沖から吹いてくる風の強さ、波の強さ、それから手漕ぎの動力や舵の方向などの諸要素を勘案しながら風や波に流されないように舵を切ったり、出力を調整していきますが、これはウィナーのサイバネティクスの原理そのものです。
コントロールの変数(制御変数)とアンコントロールの変数(非制御変数)の2つの変数ですべての世界を見て行く。
船の操舵者(船頭)にとっては舵や手こぎの動力はコントロールできますが、風だとか波だとかは制御できない。通常我々が「自然と人間」と言う場合の〈自然〉とは、ウィナーにとっては非制御変数、つまり自分でコントロールできない要素のことを言っているわけです。
一方、船頭は舵の向きや自分の船の動力は制御できる。したがって船頭は自分が制御できる変数を通じて、制御できないもの(風や波の変化)をコントロールできる。船頭は風や波に押し流される分を計算して(フィードバックして)、舵や動力を調整するのです。制御できないもの(風や波)を、制御できるもの(舵や動力)を使って相対的に支配する(コントロールする)ということは、工学分野、人文分野を超えてあらゆるものに応用できるとウィナーは考えました。
たとえば、女性が美しい服を着たり、化粧をしたり髪形をいじったりするのは仮に顔が醜い人がいたとするとそれをコントロールしていることになります。醜く生まれてしまったというのは非制御変数です(笑)。
それでそのことをすこしでも制御するために化粧をしたりきれいな衣装を着たりする。つまり制御変数でもって、自分の有限性や受動性を突破しようとする。自然科学も文学も全部そういった制御できないものと制御できるものをその都度踏まえながら、そうやって自分の有限性や自分の環境の有限性、受動性を突破しよとする試みなのです。それがサイバネティクスの思考です。
●サイバネティクスの原理は「実際の」行動に対応すること
この思考は製品の原理などにも身近なところで応用されています。使い古された例で言えば、コタツのサーモスタットは熱膨張率の異なる2枚の金属板をくっつけておいて、温度が高くなってくると熱膨張率の高い方が伸びて膨張率の低い板を引っ張りますから反りかえる。するとそこに接点があって電気が通じて暖かくなる。暖かくなりすぎると、その逆が起こってスイッチが自動的に切れる、というふうに温度を調節しています。こんな素朴なこたつは今はありませんが(笑)、原理は単純。これもサイバネティクス。
ビルの自動ドアはいつ人間がそこを通行するかわからないけれども、人間がくると、自動ドアは自動的に開き、自動的に閉じます。そうしてちゃんと「実際の」、つまり不意の、偶然の出入りを制御しています。
ウィナーはまさに「実際」という言葉を使った。「実際の行動」に対応することがすごく大事で、この"実際の"変化に対応する制御を彼はフィードバックといいました。
「実際の行動」という言葉をウイナーは、「予定の行動」の対立語として使っている。「機械的」とは「予定の行動」にしか対応できないということです。これはどういうことかというと、input(入力値)がoutputされたらそれはもうそのまま放置される。
ドアは開ければ開けっ放し、閉めれば閉めっぱなしです。これはinput(開けるという行為)からoutput(ドアが開くという結果)への流れが片方向です。この場合、入力値はドアを開けるか閉めるか、出力値はドアが実際に開いてるか、閉じてるかです。
通常の「機械的」操作では、開ければ開けっ放し、閉じれば閉じっぱなしですが、自動ドアは開けても閉じるし、閉じても開ける。「実際の」必要に応じて。〈自動〉とはそういうことです。
●フィードバックシステムとは「思考」と同じ(=考える機械)
開けても閉じるし、閉じても開けるというoutputからinputへの差し戻しの過程を「フィードバック」と言います。それは結果を反省するプロセスのことです。
結果(output)を見て、態度(input)を変更するということを「フィードバック」というのです。様子をよく見て行動しろということです。
例えば、人がいるときだけ点いて、いなくなったら消えるという電灯システムを作るとすれば、それはフィードバック制御を持った電灯のオン・オフシステムです。
つまりウィナーはそれを「考える」スイッチとみなしました。自動ドアもまた「考える」ドアです。
彼は人間の思考についても、フィードバック制御のことではないかと考えました。つまりあの人は思慮深い人だと言うとき、思慮深いというのは、自分が起こしたアウトプットに対して、再度インプットの変更の可能性を見込んでおいて、インプットのやり直しを絶えずやり続けていることを言います。
そうなってくると人間と機械の区別はなくなってきます。コンピュータが進歩して複数の制御を瞬時にすることができるようなXが存在したときに、それを果たして人間ではないと言い切れるのか。ウィナーはそんなものは区別する必要はないと考えた。大変な挑戦だったわけです。
今のITを使ったテクノロジーはものすごく高度な制御をするようになっていて、例えばホンダのアシモは中に人間が入っているのではないかと思うくらいです。ぬいぐるみに話しかけて泣きながら寝る女の人もいますが、もしそのぬいぐるみがしゃべり始めてご覧なさい。その人は下手な恋人よりも、もっと感情移入するかもしれません。
●機能主義から行動主義へ
HONDAのアシモの中に人間が入っているのではないかと思うというのは機能主義の次の段階の「行動主義」です。
「行動主義」というのは、英語のbehaviorismの日本語訳です。
この「行動」という翻訳がまた間違っています。behaviorを「行動」と訳すと何か「理論」との対立のように見えますが、要するに外見=外貌(behavior)が中身を決めるという考え方なのです。「行動」主義の「行動」(behavior)と対立しているのは、むしろ〈内部〉、〈内面〉なのです。
〈内部〉なんてものは〈外部(behavior)〉なしにはない、と考えるのが行動主義。中なんて見た人はないでしょう。中というのは外からの推論なのです。外がもし人間らしければ、それは「人間」と言っていい。そういうのがウィナーや行動科学の考え方です。
中に血が流れているとか、心臓があるとか、肝臓があるとか、高度に発達した脳があるとか、挙げ句の果てに「人間的な能力」の「存在」、ギリシャ的には〈魂〉を指摘して「人間らしさ」を言い張るのは、差別だと言いたいわけです。〈外部(behavior)〉が同じであれば、中身も同じだということでいいではないか、と。
●チューリングテスト
アラン・チューリングという人は、機械が人間であるかどうかをテストするチューリングテストというものを考えました。
AとBの部屋に人間とコンピュータを入れておきます。それで人間である第三者がどちらの部屋にコンピュータが入っていて、どっちに人間が入っているかをコンピュータのインプット、アウトプットのやり取りで判断して当ててみるというテストです。
どっちがコンピュータのように杓子定規で、どっちが人間の実際のチャットのように回答したかということをあてさせるテストですが、この実験を何度かやるうちにテストする人間が当てそこなう率がどんどん高くなって、機械がしゃべっている方が人間だとみなす誤答率が増えてくれば、Bは人間であると考えてよろしい。その時にテストした人間がBの部屋を開けて「なんだ、お前、機械か」というのは"差別"だとみなしました。
東大生らしい賢そうな青年がいた。学歴をしらべたら中卒だった。なんだ、お前、中卒か、と言ったら差別でしょ。それと同じです。ビヘイビアリズムにおいてはまったくイコールなのだから。民主主義はビヘイビアリズムという立場とまったく一致します。アウトプットとインプットの関係がすべてを決めるので、中身が中卒であろうと、小卒であろうと実力でアウトプットを示せばいいんです。それを差別したらいけない。
ジョン・サールという哲学者がチューリングの人工知能テストは間違っている、それはコンピュータがただ単に記号的な処理をしているだけで、人間的な処理ではない、と反論しました。しかしこれは変ないいがかりです。イノウットとアウトプットで差がなければ、それを人間とみなしてよいという議論をしているときに、「人間的」でないと言ってしまったら、ジョン・サールは、ふたたび「人間的」とは何かについて不問にしたにすぎない。ひょっとしたら人間は単純な記号処理をしているだけの存在かもしれない。
2,30年前にイライザという精神分裂病者と話すためのコンピューができて、真剣に患者がコンピュータに話しているんです。見ているとI(私)がYOU(あなた)になったり、YOUがIになったり、人称代名詞が転換をしているだけでも、20分、30分話せるということが非常によくわかる。チョムスキーがやっていたことは結局そういうことです。そういうある種のやり取りをよくみてみると非常に単純なコードで人間の会話が成立していることがわかります。だからジョン・サールの批判は一番大事な問題に答えていなくて、ひょっとしたら人間というのは単純な存在かもしれないという問題があって、それに反論しようと思ったら人間は複雑なのだということを証明しなければならない。人間は、自分が人間「である」ために、� ��人間的」と言えばすべてがわかっているような気でいますが(「だって人間だもの」なんて言う詩人もいましたが)、ことはそれほど自明ではない。
3)機能主義の蹉跌
●フレーム問題
このように機能主義というのは強力な思考なわけで、私の日経BPnetの連載でも触れましたが、「フレーム問題」というのが1990年の手前ぐらいから出てきました。「スターウォーズ」という映画に出てくるR2D2というロボットは限りなく人間の頭脳=知性に近い(あるいはそれを超える)能力をもったロボットとして登場しています。